(最終更新日:2024-04-05 18:22:54)
  ムカイ ヨシト   Yoshito Mukai
  向井 良人
   所属   熊本保健科学大学  保健科学部 共通教育センター
   熊本保健科学大学  保健科学部 看護学科
   職位  准教授
基本情報
■ 専門分野
社会学 (キーワード:記憶、表象、語り) 
■ 最終学歴
久留米大学大学院 比較文化研究科 博士後期課程 単位取得後退学
■ 保有学位
1. 文学修士
研究業績
■ 研究テーマ
1. 記憶の継承におけるミュージアムの可能性
■ 著書・論文等
1. 2024/03 論文  不知火海沿岸地域出郷者の〈水俣病〉経験の形成過程 熊本保健科学大学研究誌 (21),25-44頁 (単著) 
2. 2020/07/30 著書  日本におけるメチル水銀中毒事件研究2020   (共著) 
3. 2019/12 論文  福島から照射する水俣病をめぐる分断修復の現状と課題 中京大学現代社会学部紀要 13(2),83-125頁 (共著) 
4. 2012/03 論文  記憶をめぐる行為と制度 保健科学研究誌 (9),49-62頁 (単著) 
5. 2005/03 著書  水俣からの想像力―問いつづける水俣病   (共著) 
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■ 学会発表
1. 2003/06 「まなざし」としての水俣病―水俣病の現象学に向けて(環境社会学会第27回セミナー)
2. 2001/11 「水俣病」病名研究への視座(日本社会学会第74回大会)
3. 1999/10 病名「水俣病」をめぐるアイデンティティ・ポリティクス(日本社会学会第72回大会)
社会活動・地域貢献
■ 所属学会
1. 1999/10~ 日本社会学会
2. 2001/05~2010/03 西日本社会学会
3. 2001/07~ 日本社会分析学会
4. 2002/08~2011/03 環境社会学会
5. 2002/09~2003/07 ∟ 第27回環境社会学会セミナー現地事務局員
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■ 委員・役員等
1. 2021/01~ 水俣市立水俣病資料館資料管理委員会 委員
2. 2019/10~ 熊本大学 文書館 市民研究員
3. 2019/03~ 水俣市立水俣病資料館協議会 委員
4. 2016/09~2020/03 水俣病資料館資料整理等に係る業務・専門家会議委員 委員
5. 2012/08~2015/03 今後の相思社のあり方を考える委員会 委員
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■ その他
1. 2019/08 (寄稿)「水俣病」の名付けを振り返る
2. 2019/06 (記事)「水俣病」呼称 読み解く
3. 2019/06 第3期水俣病大学「病名から読み解く水俣病の社会関係」講師
4. 2015/11 (寄稿)授業案発表に寄せて
5. 2015/09~ 社団法人熊本県看護協会 実習指導者講習会「レポートの書き方」講師
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メッセージ
■ 授業紹介
人は、互いに関わり合いながら、四苦八苦して「個としての生」を全うします。それが、始まりも終わりも見えない「種としての生」の過程を成します。私たちが生きている世界(あるいは、私たち自身の営み)は多様で複雑で、とても「わかりにくい」ものです。それゆえに先人たちは世の理(ことわり)を見出そうと して思考を重ね、来し方行く末に思いを馳せてきました。その営みは細分化して今日の「科学」となりました。夏目漱石は「草枕」で、「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」と書き、それを芸術家の仕事であると説いています。私は、文芸も宗教も医学も物理学も、「束の間の命を、束の間でも住みよく」するために人間が創造し続けてきたものだと思います。医療者が働き掛ける対象は、 言語と知識を用いて、他者と関わりながら、個としての寿命を全うする、生活者としての人間です。そのlifeからsciencesを捉え返してみませんか。
■ メッセージ
進路を選ぶということ

「将来、何になりたい?」と問い掛けられたのは、何歳頃までだっただろうか。幼少の頃は別として、職業というものを意識するようになってから、私はこの問いに即答できた記憶がない。小学校の卒業アルバム掲載用に「何になりたいか」を書かされ、思い浮かばなくて困ったことを覚えている。それに比べて「将来、 大物になりたい」と書いた同級生は大したものだった。
大学に入学したのは四半世紀以上前のことになる。文学部で社会学を専攻したが、何かに「なる」ことを目標に勉強したわけではない。公務員試験や教員採用試験の受験勉強に打ち込むことのできる同級生がうらやましくもあった。私の大学時代は、目的地を目指して歩くのではなく、進みたい方向を確かめるための、道草と迷子の時間だった。 大学卒業後は、いわゆる「プログラマ」になった。大学での専攻とこの仕事に直接の関係はない。ただどちらも、興味があって選んだという点は共通している。 結局、この仕事は6年で辞めて大学院に入学したが、開発現場で得た知己と経験に助けられて現在の私があることは疑いない。
進路選択はいつでもそうだが、時間の制約の下で何らかの必要性に背中を押され、また同時に彼岸の魅力に手を引かれ、その二つの力の間で跳ぶ決心をして、着地した場所から次のゲームが始まる。迷うことは必ずしも楽しいことではないし、どちらかといえば辛いものだけれど、選択の余地があるということは幸運なことだと思いたい。