ソウトメ タダシ   Sotome Tadashi
  五月女 肇志
   所属   二松学舎大学  文学部 国文学科
   二松学舎大学大学院  文学研究科 国文学専攻
   職種   教授
発表年月日 2022/11/12
発表テーマ 藤原定家『百人一首』自撰歌続考
会議名 和歌文学会11月例会
学会区分 全国学会
発表形式 口頭(一般)
単独共同区分 単独
開催地名 明治大学
開催期間 2022/11/12~2022/11/12
発表者・共同発表者 五月女 肇志
概要 藤原定家が『新勅撰和歌集』『百人秀歌』に自撰し、『百人一首』所収歌として著名な「来ぬ人をまつ帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ」について考察した。
 本歌である『万葉集』巻六の笠金村歌が、定家の時代の訓読に従うと、現在の万葉研究においては作者自身の比喩であるとされてきた「たわやめの」以下の表現が、淡路島にいる海人乙女の形象と考えられる。
 一方、これまでの研究によって『万葉集』巻一・五番の軍王歌、『後撰和歌集』恋四・八五一番の承香殿中納言歌、『伊勢物語』第八十七段、『新勅撰和歌集』雑四・一三三五番の源通光歌、顕輔集・五一番歌、『源氏物語』須磨巻の表現摂取が指摘されてきた。
 これらの指摘は首肯されるものの、その内の『伊勢物語』第八十七段、『源氏物語』須磨巻に見られる藤壺、朧月夜の歌では、多くの王朝和歌の例とは異なり、海人が恋の当事者と捉えられる表現をしている。そして定家の『殷富門院大輔百首』に見える「逢不遇恋」題の「ながくしも結ばざりける契り故何総角の寄りあひにけん」は、催馬楽「総角」への返歌のような一首である。同様に「来ぬ人を」詠は、後世『愚問賢注』等で指摘される「贈答の体」の本歌取りとして捉えられる。また、『京極中納言相語』の「恋の歌を詠むには、凡骨の身を捨てて,業平のふるまひけんことを思い出でて我が身を皆業平になして詠む」は、作者の現況を離れ、恋の当事者として振る舞う歌を詠むことが求められていると解される。さらに『六百番歌合』の判詞においても、恋九・二十五番では、女が出て行ったのか男が出て行ったのかという議論が恋歌においてなされており、具体的な状況が問題とされている。
 以上のことを踏まえると、本歌の万葉歌に見える海人乙女の姿を前提に定家は創作していたと考えられ、解釈にあたってはそのことに留意すべきであるということを主張した。